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「自分の考えを口に出すことに、なんとなく抵抗がある」
もしそう感じることがあっても、それはあなたが消極的だからというわけではないと思います。
私たちは普段、求められるまま効率よく正解を出したり、周りと足並みを揃えることを優先しがちです。
その中で、自分の素直な感覚を言葉にする機会は、驚くほど少なくなっているのかもしれません。
私は個人で、ここ3年ほど『答えを出さずに意見をそだてるトピックトーク』という対話の場をひらいてきました。
月に一度、街のカフェに集まり、持ち寄ったテーマについて話してみる。結論を求めず、自由に。
そんな時間を参加者さんと重ねるなかで気づいたのは、「何を言ってもいいですよ」と言われることへの独特の戸惑いでした。
「変に思われないかな」
「もっと賢いことを言わなきゃいけないかな」
そんなふうに、自分の中に「差し出せる言葉」が見つからなくて不安になってしまう。普段感じているそういうモヤモヤが参加動機になっていたんです。
私自身も、初めて長期で海外へ出た20代前半のとき、まさにその戸惑いの中にいました。
同年代の外国人たちのなかで交わされる「あなたはどう思う?」という真っ直ぐな問いに、一言も返せず困惑する日々。そこで感じたのは、知識や語学力といったスキルの差ではありません。
そのずっと手前のところで、「これまで自分は、どれほど自分の頭で考え、自分の感覚を信じて決めるという経験をしてきただろうか」という圧倒的な積み重ねの差がそこにはありました。
私が現在、普通の会社員として働きながら対話の場をひらき続けているのは、たぶん、このときの原体験があるからです。
この記事では、私がそんなもどかしさの中から見つけた「対話」という場所について、書いてみようと思います。また、なぜそれを自分の生活の一部として続けているのかについても。
もし、今の日常で自分の声が少し遠くなっていると感じる方がいたら、ひと休みするような気持ちで読んでいただけたらうれしいです。
「あなたはどう思う?」という問いに一言も返せなかったあの頃。その圧倒的な「差」を埋めてくれたのは、その後、旅先で出会った人たちとのやりとりでした。
転々と場所を変えながら生活し、彼らと接していて気づいたのは、価値観というものは、その人が何を大切にして生きているかという「生活」の土台から、ごく自然に芽生えてくるものだということです。
国籍や年代や属性に関わらず、自分の人生を「自分ごと」として生きている人には共通点があって、それはその言葉の裏側に、「私は私の感覚を手放さずに、自分で決めてきた」という静かな自負を携えていることでした。
単に自信があるというのとは違います。
たくさん悩み、思考し、時には立ち止まりながらも、最終的には、自分の感覚を信じて選び取ってきた。
そうした簡単にはいかなかった時間の蓄積が、彼らの言葉に、どっしりとした手応えと厚みを与えていました。
その「やってきたこと」を感じさせる空気感に触れたとき、私は何よりも彼らをかっこいいと思ったし、自分もそうやって歩んでいけばいいのだと、希望のようなものを与えてもらったんです。
それは特定の誰かに教わったわけではありません。
でも、出会った人たちと無数の「生活と思考」がセットになった対話を重ねる中で、私の中にも一つの芯が育っていきました。
「自分の気持ちや感覚は、たとえリスクを背負ってでも、肯定するに値するものだ」
社会全体の規範にただ沿うのは、ときに楽だけど、そうではなく、自分の感覚を信じて選んでいく。彼らとの正直な対話の蓄積は、私のなかにそんな自分自身との向き合い方を育んでくれました。
この経験を通じて、私はある一つのことに確信を持つようになりました。それは、「対話を通じて自分を育てることができる」ということです。
私が考える対話とは、誰かを論破したり説得したりする技術ではありません。自分の内側にある、まだ名前のつかない感覚を、そっと場に「置いてみる」こと。それが対話の始まりです。
自分が感じていることを素直に言葉にし、人前に出すことには、少なからず「こわさ」が伴います。
けれど、本当にこわいのは、自分を他者にさらし出すことそのものではありません。
言葉にしなければ消えてしまうような頼りない感覚が、誰にも触れられないまま自分の中から失われてしまうこと。
そちらの方が、私にとってはよっぽど「こわい」ことのように思えるのです。だからこそ、そのリスクを背負ってでも、自分の気持ちを肯定し、言葉を置いてみる。
それは、自分の中から探り出し、拾い上げた断片を、自分を支えることのできる頑丈な土台へと据えていく、静かな決意のような作業なのだと思います。
「否定されない、結論を出さなくていい」という安心な場所でそれを行い、それを誰かが「そうなんだね」とそのまま受け取ってくれる。その繰り返しの中で、私たちは「自分の考えていること」をゆっくりと確かめていくことができます。
他者の視点に触れながら、自分だけの納得解を積み重ねていける。対話には、そんな力がある。
私が場をひらき続けているのは、こうした対話の機会が、特別なことではなく「風景」として当たり前に存在し、街に溶け込んでほしいからです。
生活の中に、自分の感覚や気持ちを確かめられる場所が身近にあること。
それが普通になっていくことで、私たちはもっと無理なく、淡々とした毎日の中に自分なりの安心感を見出せるのではないか。
そうした日常のインフラのような場を、これからも丁寧に耕していきたいと考えています。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
3年半ほど個人で続けてきたこの活動ですが、現在は私自身、この場所をより長く、よりたのしく続けていくための見直しをしているタイミングにあります。
対話の質を大切にしながらも、運営をより持続しやすい形へと整えていくこと。
まずは、私自身の運営リソースの割り振りや効率化など、自分で改善できる土台づくりに一つひとつ取り組んでいます。
そうして場を整えた先に、この場所をよりおもしろく、広がりのあるものにしていけるよう、運営メンバーという形で仲間を募ることも考えています。
自分でいま一度、必要な作業を整理することで改めてどのような役割をメンバーとシェアしていきたいか、その輪郭がはっきり見えてくるのだと思っています。
一緒に場を耕してくれる仲間への告知は、その準備が整ってから改めてさせていただく予定です。
歩みは遅いのですが、そのぶん着実に変化をしていきたいと考えています。
もし、これからの展開に興味を持ってくださる方がいたら、ぜひ下記のアカウントをフォローしてお待ちいただけると嬉しいです。
よろしくお願いします。
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