19歳の夏、仲が良いわけでもないクラスメイトと祇園祭に行った。

19歳の夏、仲が良いわけでもないクラスメイトと祇園祭に行った。

「つなげーと」は、「自分が今一番やりたいことを一緒にできる誰か」と会えるサービスです。行きたい場所に一緒に行ける人、趣味の仲間が見つかります。

「よそよそしいのはスキップして、一旦は友だち!」という前提で、食事やレジャーのイベントに参加してもらうのです。リピーター率も高く、多くの人たちが楽しんでいます。

19歳、夏、京都

2013年7月。暦の上では十分に夏だが、まだ暑さには余裕がある。突然時を戻されて困惑するかもしれません。恐縮ですが筆者の個人的な思い出話をさせてください。

浪人生活もすっかり板につき、去る春の不合格の苦さもとうに忘れ、予備校という新たな環境で新たな友人と味気ない日々を送っていました。

今日はどうしてだか人が多いな、と訝しく思っていたが、どうやら祇園祭があるらしい。京都に住む自分からしてみれば、産まれてから19年間一度も足を運んだことのないイベントです。どころか、まったく興味がない。京都の道と電車が混んでしまう厄災日、くらいにしか思ってませんでした。京都を離れて成人した今となっては、もう少しくらい前のめりになって毎年楽しんだってよかったなとも思う。まさしく後の祭りである。何でもないようなことが幸せ、と歌ったのは高橋ジョージだったが、身近にあるものの価値はどうにも感じずらいのが人間の性質です。

京都に住むーーそれもまだ10代のーー子どもの僕にとって祇園祭なんかよりもCDショップや映画館の方が大切だったのです。

「行ってみたい」と彼が呟いた。

まだそれほど暑くはないくせに、ペンを持つのが嫌な僕たち5~6人は予備校の教室で教室でウダウダと溶けるようにだらけていました。そんな場で、彼が突然祇園祭に行きたいと言い出したのです。

「祇園祭に、行こう」

彼の目は輝いていたが、その光に照らされた他の者たちの心には影が差した。要するに “売れない” のです。「さすがにそこまで遊ぶ気はないから勉強する」「祇園になんか興味ない」と口々に渋り、それぞれがそれぞれの持ち場に戻る。そこには僕と彼の二人が残りました。

「ほんなら、行こか」

どうしてだか僕はその船に乗ってみることにしました。一度も足を運んだことのない祭りが、すぐ数キロ先でやっている。毎年やっているとはいえ、年に1度しかない。行くならいましかないと、ぼんやりと確信しました。毎日が夏休み最終日の8月31日のような浪人生生活。これくらいの息抜きがあっても良いだろう。なにより「楽しすぎない」余暇だろうから、罪悪感も薄い。かくいうわけで、僕は彼とふたりで祇園祭へ行くことにしたのです。

仲の良い人と行ったわけでもないのに凄く楽しかった、という不思議な体験。

出店でおやつを買い、とりとめのない話をして、けっきょく鉾は少ししか見ない。

要はちょっとだけ豪華な散歩である。

しかしこれが案外楽しかったのです。このうえなく刺激的ではないにせよ、このうえなくつまらないわけでもない。スコンと乾いた音が鳴るような楽しさが残った。未成年だから酒もたばこも無し。思い返せば信じられないほど無邪気な時間です。

実のところ、彼と僕は毎日毎日顔を合わせて冗談を言い合うほどの仲ではありませんでした。たまたまクラスが同じになっただけで、志望大学も違う。はなから期間限定の知人関係であることは明確だったし、案の定その後の交流もない。

当時の筆者。そもそも当時の筆者は恐ろしいほど非社交的でした。これに関してはまた後日機会があれば……。

彼、彼、としつこく固有名詞を避けているのもこのためです。大変申し上げにくいのですが、もう僕は彼の名前を憶えていないのです。

僕の彼に関する記憶は、「ボーダーのお弁当袋を提げていた」と「あの日一緒に祇園祭に行った」のふたつのみ。アキネーターでも舌を巻くほどの情報量の薄さだ。どこの大学に進学したのかさえ知りません。あるいは忘れました。「彼と祇園に行った」という事実だけが栞となって夏の記憶に挟まっている。

その日だけの友人という面白い関係

これから先も、相当に稀有なめぐりあわせでもない限り、僕が彼と邂逅することはないでしょう。謂わばあの日の祇園祭は、その日限りの友人関係だ。

けれど、決して悪くなかった。気分が一致したから、一緒に楽しむ。こうして表現するとなんだかドライで味気ない気もするけれど、ドライだからこそ凝縮された旨味がある。

瞬間的に生まれる繋がりも、それはそれで意外と面白い。

長々と自分語りに付き合っていただきありがとうございました。

僕の祇園祭の思い出は「ひと握りの淡い体験」ですが、「つなげーと」では似たようなことが毎日起こっています。イベントに参加するとは、つまりその日に会った人と、その日を全力で楽しむことなのです。

そして、その中から5年後もつるんでいる友だちができるのか、名前も忘れた誰かのこととして思い出すこととなるのか。いずれにしても、祇園祭の思い出は僕にとってかけがえのないものです。